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建水建水と蓋置は台子の皆具のひとつで唐銅が本来でした。茶道具 蓋置 案山子 三つ案山子 今岡三四郎作。
袋状で上部が開いた形の「エフゴ」がもっとも多い。茶道具 蓋置 雲華焼 唐子 山崎元洋作 雲華焼き。
その作品は鉄を鍛造して制作する槌物(うちもの)と鋳造による鋳物(いもの)が主である。茶道具 皆具 朝鮮唐津 佐平窯 宇田隆和作。
【6代 浄益(頼方)】
1766年~1833年
5代の息子
そっ啄斎の機嫌を損ね、一時表千家出入りを禁じられ、その後は裏千家のみの御用を務める(詳しい理由は不明)
了々斎の代になって許される
歴代中随一の茶人であり、「宗清」の茶名を持っていた
【7代 浄益(頼)】
1796年~1859年
「砂張打物の名人」・「いがみ浄益」といわれ、天明の大火以後様々な事情でふるわなかった中川家の中興の人物といわれる。茶道具 香合 干支 寅 干支香合 虎 中村秋峰作 干支寅 御題窓。唐銅 伝来建水 (共箱) 中川浄益 - 茶道具販売 栗林園。(蓋置も同じ)
建水は茶碗をすすいだお湯や水を捨てる容器で「こぼし」ともいいます。
材質は 古くからある唐銅 砂張・モールなどのほか陶磁器のもの、木地の曲物などがあります。茶道具 銘付茶杓 銘 白糸 松尾宗倫筆 葆光斎 甫斎作 茶杓。茶道具 茶箱道具 仕服 仕覆 三つ組仕服 正絹 小牡丹東山裂。
その他、「棒の先」「槍の鞘」「箪瓢」「鉄盥」「差替」「大脇差」などとあわせて【七種建水】と呼ばれる。
【中川浄益(なかがわじょうえき)】 千家十職 金物師(かなものし)
br>中川家は錺師(かざりし)とも言われ、金工の精巧な茶道具を得意とし、優れた金工の技術を継承してきた。茶道具 香合 木魚 川本光春作 祥桑軒。茶道具 炭道具 羽箒 はぼうき 大野雁 炉用。
【初代 紹益(紹高)】
1559年年~1622年
越後出身
元は先祖と同じく武具を製作するが、千利休の依頼・指導により薬鑵(やかん)を作ったのを契機に、現在の家業である茶道具作りを始めたとされる
代表作「利休薬鑵」
【2代 浄益(重高)】
1593年~1670年
寛永年間に千家出入の職方となる
表千家 4代 江岑宗左より、豪商佐野(灰屋)紹益と名前が紛らわしいことから浄益に改めるよう申しつけがあり、これ以降は代々「浄益」を名乗る
また、妻は金森重近(宗和)の娘
【3代 浄益(重房)】長十郎のち太兵衛 1646年~1718年
技術的に困難であった砂張(さはり)銅・錫・鉛の合金の製法を発見して多くの名品を残しており、歴代の中でも鋳物の名人として知られる
【4代 浄益(重忠のち友寿・源)】
1658年~1761年
3人の息子に恵まれ、息子達と共に家業の隆盛に励む
中川源介友忠 1685年~1759年9月4日
代表作「覚々斎好渦唐金水指」。父の長命のため、跡を継げないまま没
中川治兵衛友輔(生没年未詳)
兄・友忠と共に銅工・鋳物の技に優れていたとされる
【5代 浄益(頼重・源吉、吉右衛門)】
1724年~1791年
4代の三男
この代から代々「吉右衛門」を名乗りとする
表千家 8代・そっ啄斎に重用される
晩年に天明の大火に遭い、過去帳1冊以外のすべての家伝・家財を消失。茶道具 菓子器 干菓子器 干菓子盆 曲丸盆 松唐草絵 3代 橋村萬象作 2代 清岳萬象。茶道具 炭道具 炭斗 炭取り 炉用 達磨炭斗 達磨籠 達磨篭 和田菁竺作 炭斗籠 炭斗篭 炭取籠 炭取り籠 炭取篭 炭取り篭。妻は飛来一閑三女・九満
中川吉太郎紹明 1828年~1845年4月8日
7代の嫡男
17歳で早世
【8代 浄益(幾三郎)】
1830年~1877年
7代の婿養子
三井家手代・麻田佐左衛門の息子、妻は7代の娘・戸代
幕末~明治の転換期に先を見通し、京都の博覧会の開催に尽力
また「浄益社」を設立、海外への日本美術の紹介を行うなどするが、様々な事情により失脚。失意の中48歳で没
【9代 浄益(益之助・紹芳))
1849年~1911年
8代の息子
茶道衰退期に家督を相続
父方の縁により三井家などから援助を受けるが、家業の建て直しがうまくいかず、逆境の中アルコール使用障害となる
職人としては一流であったが、伝統工芸に理解のない時代だったため世間からは認められなかった
不遇のまま没
【10代 浄益(淳三郎・紹心)】
1880年~1940年
9代の息子
早くから大阪の道具商のもとに修行に出される
父の死により家督を相続
第一次世界大戦勃発による軍需景気にのり負債を完済、中川家再建の基盤を作る
代表作「青金寿老」「布袋像2体」(以上三井家蔵)「祇園祭岩戸山柱金具(2柱分)」
【11代 浄益(紹真)】
10代の息子
京都市立第二工業高校、金属工芸科卒(現 伏見工業高等学校)
1940年昭和15年 父の死後、浄益を襲名した
2008年平成20年 死去